(2017/6/11)

春の余韻は朽ちないままに風は湿気をおびる。梅雨入りの報せに反して、雨雲は黙し、おだやかに眠りに落ちかかるような日々。夢をみてもおぼえていない、その代替案として知らない景色を見るために歩く。曖昧な目的地を設定して、歩くという行為を正当化する。東京に住んでいるという以外には何の共通点もない、ゆるやかな連帯感でむすばれた無数の生活とすれ違う。犬が吠え、こどもたちが公園で遊びのよろこびと驚きに出会い、ピアノを練習する音がひびく。眠りのあとの喉のかわきを穴埋めする。
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感情をおもてにださないよね、と言われることがあり、自分の母親にすら言われたことがあるので、わたしは割合そういう風に言われることが多いほうなのだとおもう。心外、というか自分でそうおもったことはない。このギャップはいったいどこから生まれているのか、とかんがえると、感情というものは手にあまるくらいに複雑なものだ、という認識からすべてははじまる。感情にはうまく名前をつけられない。たちどまり、言い淀み、困惑する。戸惑いの連続に日常をのせ、その傍ら感情を咀嚼して、かたちにできるくらいになる頃にはそんな些細なことを気にしているひとは誰もいないのだった。

整理された感情はいつでも遅れてやってくる
内側と外側の速度の違いは、浮力になるし吐きそうにもなる

困惑することも、なにかをつくりたいとおもうことも、すべてを肯定するところからはじめたいとおもうよ。
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おとなになると思春期のような感受性はうしなわれる、というひとがいるし、そのことに怯えてもいたけれど、今はまったくそうおもわない。だんだん器用になって、外側の速度に焦点を合わせることに慣れるだけなんだとおもう。そして内側は見たくないものだらけだし器用によけて道を渡れるようになる、わたしは不器用でずぶ濡れでおなじところを永遠にまわっているけれどそれもまあ仕方ないかと今はかんがえている。
(2017/6/4)

先日はオペラシティのアートギャラリーに出かけて、そのあと新宿で『20センチュリー・ウーマン』を観た。マイク・ミルズ監督の映画は『サムサッカー』も『人生はビギナーズ』も好きで今作も好きになることはほぼ間違いがなかった。
わたしがマイク・ミルズからうけた影響というのは考えたことがないけど、多感な時期というのはわたしにもあって、そういうときにGRAND ROYALのBUTTER08とか、X-GIRLなどのムーブメント(いわゆるガーリー・ムーブメント)がおきたのでわたしの何パーセントかの感受性というか文化性みたいなものはマイク・ミルズによってつくられているというのは認めなくちゃいけない。意識していようといまいと90年代後半くらいからのカウンターカルチャーにとって空気みたいに欠かせないひとだとおもう。Sonic Youthのジャケットもそう。

SONIC YOUTH / WASHING MACHINE

それで映画はほんとうに素晴らしく、ずっと泣いてた、「アートかぶれの軟弱野郎ってどういうこと?」って言いながらTALKING HEADSで踊るところなんて最高だった。ART FAGって書いてあるTシャツとかあったらほしいな。
パンクとフェミニズムの映画、なんだけど、わたしはこの「フェミニズム」は「多様性」と言いかえたい、70年代のアートスクールにとびこんだパンクの女の子と、陶芸をやってる元ヒッピーと、思春期の子どもに戸惑うお母さんと、パンクとフェミニズムに目覚める15歳の少年と、醒めてる17歳の女の子。今からみればその時代そのものなのに社会とのあいだには溝があるようなひとたち。「しあわせ」ということばに距離感があるようなひとたちだ、「しあわせ」が経済や政治に規定されるような「良識」からうまれるなら。そういうひとたちを否定もしないし過度な脚色による美化もしない。傷ついたり焦ったり怒ったり、音楽に身をまかせる瞬間を持ったりしながら、不器用に「しあわせ」に近づこうとする様子がただそこにある。ほんとうにやさしくて実直なまなざしを持っていないとこんな風には撮れないとおもう。

『人生はビギナーズ』という邦題の、原題はBeginnersなのに「人生は」って勝手につけちゃうかんじがとてもきらいで、ことあるごとに文句を言っている。今回はまともだなとおもっていたけど、原題は「ウーマン」(単数形)じゃなくてWOMEN(複数形)じゃないか、と気づいてしまって、でもこれはどうしたって複数形じゃなければいけない映画なので、何だかなあとおもう。言いだしたならきりがない。でも、ひとつ/ひとりじゃなくて女性「たち」の映画なんだ。

大人になったら鈍くなって何かをうしなうかわりに、とても生きやすくて楽しくなるんじゃないかとおもっていたけど、想像とはちがい、わたしはいつまでも地に足がつかず、生きづらさはますばかりで、知らないひとの怒りやかなしみまで背負うのは窒息しそうなのでニュースさえみるのをやめてしまった。やさしい、実直なひとのまなざしが映画になることは一種の救いだけど、やさしく、実直でいつづけることはすでに不寛容な社会にたいしてカウンターなんだということ、そのことに気づくととても心ぼそくなるけれど、それでもわたしはうつくしいものを信じたい。
(2017/6/3)


もうこんなに
コントラストの強い季節
(2017/6/1)
まどろみを啜るようなおだやかな毎日がつづいている
日が長くなったと気づくときは無自覚に見送った季節の長さに気づくときでもある
毎日飽かずに同じ冗談で笑いあうようにわたしは毎日同じことに驚きたいよ、慣れきってしまうにはあまりにも不定形でいびつで、ここはきれいな場所だ
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今年の1月、Assembleの展示『共同体の幻想と未来』をみたときの写真
スペキュラティヴ・デザインと公共圏
提起すること/変えること/変わること
イコール、たぶん、分かち合うこと
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ことばが煩わしくなる瞬間は、あります、わたしたちはことばによってしか意思を伝達することができないなんてことはないけれど、ほんとうに意思が伝達できたのかどうかをたしかめる術は、ことばしかない、という奇妙なねじれと距離感は絶対的な矛盾で、それは絶望にも似ています、でも、わたしたちはその不可能性を知りながら、何かを/誰かを/お互いを、確信にいちばんちかいかたちで理解したいから、ことばは世界のすべての発明のなかでもっともうつくしいのでしょう。
(2017/5/9)

思い出の亡霊
この場所のひかりを焼き付けたかったな、ほんとうは