(2014/8/28)(宛先のない手紙)

ここからは見えない、部屋の外の窓の下を、車が走りぬけていく音でまだ雨が降っているのだと気づきます。水面を撫でるように空気がふるえ、わたしの耳まで届きます。部屋のなかには冷蔵庫の動作音だけがします。ほんらいなら不愉快なだけであるはずの雑音ですが気にしないようにとおもえば気にならないのだから都合のよいものです。こちらは、しずかな夜です。

しずかな夜のなかに座っていると、普段の生活がどれだけ雑音に曝されているかと気づきます。わたしの生まれた町では、しずかな夜には虫の鳴声しか聞えません。ひときわ声のおおきいものは、近くで鳴いているのでしょうか。近くで鳴いているものを除けば、その声のひとつひとつを聞きわけ、判別するのは殆ど不可能におもえます。夜の暗やみのひろがりを埋めるようなさざめきです。そこに果てはなく、夜は宇宙とつながります。時折、風が木をゆらして空気が蠢きます。夜の風はつめたい。

今、わたしから半径100メートルの内側だけでも、名前も顔も知らない人たちがたくさん眠っているのだと気がつきます。それぞれのコンクリートにまもられて、無防備に、互いを知ることもなく、眠っています。きっとその人たちのコンクリートのなかにもひとしく冷蔵庫の動作音と、雨をはじく車の音。それは心もとなく、おそろしいことのようにも、すばらしいことのようにもおもえ、都合のよいわたしは混乱して喉がかわきます。スーパーマーケットでは梨がならぶ季節です。冷蔵庫のなかには梨が五つ、つめたく並んでいます。この生活の良心のひとつです。

そちらの夜はいかがですか。暗やみは、そのひろがりを知る人びとをつなげます。混乱したときには、すてきな旋律を聴きます。暗やみを埋めて夜を宇宙につなげるように。かんたんに救われるのだから都合のよいものです。あなたは、どうか、つめたい夜の風にのみこまれませんように。

(2014/3/22)
(2014/3/11)

雲ひとつない、遮るものは何もない、わたしは口を噤んだ。心無しか人びとは俯きがちで、近づく春の陽のひかりがぼやけた影を落とすアスファルトを睨んだ。遠くの空をゆっくりと飛行機が横切っていく。音もなく、遠く、とおく、わたしの手の届かないところ、いつかわたしを待つところのことをおもう。または空を真っすぐに切り裂く浮力と到着地点のこと。わたしが目を閉じるのは、無力なのを知っているから。静かな日。ここにいる人、またはいない人たちの、まばたきで睫毛がかすれる音、濡れる頬の産毛、つづく呼吸、つづかなかった呼吸のさざめきが、木の葉をかすかに揺らす祈り。わたしはずっと目を閉じていて、呼吸はつづく。まだどこにも行けない。雲ひとつない。

ひかりの粒子さえ惜しみなく。
それは確かにひとつの救い。