(2012/12/20)


先日、ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』を読み終えたのだけれど、「最後の朝」を捉えた第一章がとても好きだとおもう。物語をつむぐことばのひとつひとつが鋭く、正確で適切で、わたしのなかでこの朝は、かたちを持って実在する朝になる。
スローモーションのように、ひとつひとつの無意識的な行動を確かめるように、つむがれていく何気ない朝の風景。たとえば、「トースターがポンと跳ね上がり、彼女はまたそれを下げた。二回ほど下げないとパンが茶色くならないからだ。彼の方はそれを認めるかのようにぼんやりと頷いた。」というように。
でもこのなかで、ありふれた朝の景色の中で、直後の不吉な展開を予感させることばが散りばめられている。

彼女がテーブルの方に向かうと、鳥たちが再び音を立てて餌台から飛び立った。鳥たちは軒下の陰から、陽光と沈黙の中に飛んでいった。その動きを彼女は部分的にしか見なかった。捉えがたく、物静かに美しい。鳥たちは陽光に映え、光に焼き尽くされてしまいそうなほどだ。肉体を失い、透き通って儚い、光の散乱のようなものに変わっている。

彼はイチジクの柄を噛み切り、それを流しの方に投げた。それからイチジクを親指の爪でこじ開け、彼女の手からスプーンを受け取った。スプーンを舐め、それを使って、口を開けたイチジクの皮のあいだから赤紫色の果肉をすくい取る。すくい取ったものをトーストの上に落とす−−−果肉の部分、どろどろしたもの、つぶつぶ−−−そしてスプーンの背の部分で広げる。血のような色のバター状の渦、種子の生命で弾ける物質。

光が散乱するように飛び立つ鳥。血のようにトーストに塗られたイチジク。まぶしい朝のひかりの鮮やかさのなかで、読むひとに棘のようにひっかかって抜け落ちないことば。でもこの第一章にある歪みは、すこし直接的とも言えるイメージの挿入からだけきているわけではないと思う。

 「僕のキーを見たかい?」
 彼女は言った。「何?」
 彼は自分の質問が理解されるのを待っていた。
 「どのキー?」と彼女は言った。
 彼は彼女を見つめた。
 彼女は言った。「昨日、ローションを買ったの。あなたに言おうと思ってたんだけど。筋肉をマッサージするやつ。緑と白のチューブに入っていて、二階の大きなバスルームの棚に置いてあるわ。脂肪分ゼロよ。筋肉のマッサージ用。よくこすりつけるといいわ。じゃなきゃ、私にやさしく頼んでみて。こすりつけてあげるから」
 「僕のキーはみんなひとつのリングにつけてあるんだ」と彼は言った。

おそらく世界中でどこにでもある、親しさおよび二人だけのコードをもとに媒介される歯車の噛み合わない会話、コミュニケーションの体裁をとった無意識のディスコミュニケーションを、こんなふうにはっきりとことばで著してしまうのは残酷だ、けれど、この残酷さゆえにこの「最後の朝」は適切で正確なのだとおもう。

この『ボディ・アーティスト』という作品は、こういう無意識の日常を、全てうしなったあとに意識的に捉えなおして「身体」というレベルで表現するように至る、そういうことばから離れた<意識—無意識>の軌跡を、敢えてことばで捉えていく試みとして、とてもうつくしいものだとおもい、好きだとおもった。

夫婦の最後の会話が暗やみのなかの夜ではなくて、嵐が過ぎ去ったあとの陽射しがつよい朝、すべてかがやくようなまぶしい朝に設定されていること。すべてのひとに平等におとずれる夜明けにすべてのひとが完璧にしあわせなはずもなく、軋みはじめたあやうさに、八木重吉の一編の詩を思い起こす。

すずめが とぶ
いちじるしい あやうさ

はれわたりたる
この あさの あやうさ


八木重吉『朝のあやうさ』